みーんみんみん
初夏の夜、月の笑顔が、家を飛び出した男に向けられる。 世界は僕を愛さなかったのだと、月を見、走りながら男は思う。男がこう思うのには訳がある。 訳とは単純で、彼は生まれつき指先が妙に曲がって、鼻はゾウのように長く、声はドブが蠢く蠕動のよう。それが訳だった。 彼は当然のように笑われた。 鏡を見るたびに、男は自分の悲運を嘆いた。 それでも、思春期となる十代中頃までは、世俗に染まらず、人の評価も今ほど気にならなかった。 だが、体の変化に引っ張られるように変わりゆく心は、その悲運を受け止められなかった。 ついぞ彼は、「こんなふうになるなら俺を産んだりするな」と、怒号を飛ばし家を飛び出した。 あぁ、哀れな男よ。行く宛などない。なぜなら彼には、もはや他人を信じるほどの気力が残っていない。 助けも呼べず。一人、ただ孤高を気取って強がる他ないのだ。 やがて走る気力も無くなったころ、カマキリを踏んづけていたことに気づいた。 あっけなく潰れたカマキリを見下ろして、彼は膝を折り、号泣した。 申し訳なさと、後悔と、そしてぶつける所在のない、怒りーーー。 男は地面に倒れ伏して、踏んづけたカマキリと並んで、植物のように、視界の情報をただただ眺めて受け流していた。 誰も彼を案ずることはなく、ただ月が、艶やかに彼の不幸を見て笑う。 そうしていると、粗野な男が向かいの歩道で、同じく蝶を踏みつけていた。 男はあろうことか、蝶を踏んづけたことにも気づかないで、そのまま道をいく。 ーーーあぁ、なぜ僕には気になってしょうがなかったのだろう。虫の一匹、殺してしまってもどうということはなかったはずなのに……。 男が考えた時、月がリンと鳴った。 ありえない話だ。だが、確かに鳴った。 その瞬間、男の中で何かが変わった。 ハッと意識が回帰する。 確かに何かが、空からめくるめく降り注いだ。男はそう感じた。 ーーーあぁ、そうか。これは俺にだけ与えられたものだったのだ。この見た目も、小さなことが気になるこの性格も、その不運も全て。背負わされるということは、この身に与えられたということなのだ。 男の体が軽くなる。血管や内臓を汚濁していた泥土が、途端に空気に変わる。 心は推進する。 意思が加熱する。 視界は色を持って、マイナスがプラスへと飛躍する。 彼は立ち上がり、カマキリを近くの土に埋めて、そして歩き出した。 歩くより他はない。この肩に乗せられたものは、今、確かにこの身にある。あるということを彼は飲み込み、邁進する。 それ以上などない。 歩け、歩け、歩けーーー! もう二度と、月に笑われないように。